藩校興譲館、米沢中学、米沢一高、米沢西高、米沢興譲館高と続く米沢興譲館同窓会公式サイト

ホームページロゴ

興譲館精神Part2

人の自由という。
しかし、自由とはなんであろうか。
子供が愚であるといって、その子を捨てる自由が親にあってよいものだろうか。
親が病気をして役に立たぬからといって、これを捨ててかえりみぬ自由がその子にあってよいものであろうか。
親子となり、夫婦となるも宿縁である。
その宿縁が、己の利益と一致せぬといって、これを捨てることが自由というものならば、まこと自由はいとわしいものである。
病気の妻を捨て、利益のあがらぬ会社を捨て、月給の安い地位を捨て、ただひたすらに利益を追うて転々とする人生が、はたして、人生の名に値する人生であろうか。
鷹山公が、破滅に瀕した米沢藩をうけつがれ、うけつぎて民のつかさの身となられ、終生を藩政の挽回に尽された公のご精神は、われらこそ今日まさにこれをうけついで、親としては親の務をつくして不肖の子にもこれが養育に精根の限りをつくし、それぞれの地位、それぞれの立場に在って、己を無にして職務に忠誠であることは、千古にかわらぬ不滅の道であるべきであろう。
われらが興譲館精神の第二の根本義をここに見ようとするのは誤であろうか。
なにかを捨て、なにかをえらぶのは、えらぶことも捨てることもできぬものを生かさんがためである。
忠誠の原理こそは人生の根本義であり、興譲の精神はこの根本義に立脚するものである。
興譲の精神を身に体した米沢の人士は、学校に在っては学校をわれと感じてこれに忠誠を尽し、会社に在ってはその興隆を己の責務として忠誠を尽して終始かわらぬ努力を捧げる。
わが校に学び、天下に名を成した畏敬するわれらの先輩は、決して利を逐うに敏なる徒でもなし、一かく千金を夢みて機に投じた功利の徒でもなく、まこと黙々として、着実に己の責務に忠実であった人々であることを思う。

洲先生は学問と今日と二途ならずと教えられ、鷹山公もまたしばしばこのことばをひいて世子に諭された。
興譲館の精神は理論のために理論をもてあそぶことではない。
なにごとにも理がないということはなく、なにごとも理によって立つけれども、理はことの始でも、終でもない。
純理を純理なるが故に尊ぶことも、十分に道理の存することであるけれども、平洲先生の学は先ず理を追うことからはじまるのではなくて、第一に、育つ生命の存在を見、その存在を第一義として、それが正しく育つ理を求め、しかして理を理に終らしめず、これをいかにして実にするか、その道を探究し実行することであった。
われらはここに興譲館精神の第三の根本義を見るのである。

理のために純理を愛し、これを最高の目標とする態度もまた現実に存し、存してもよい態度であると思われる。
しかし、飢える子を前にして、理を追うに時を過ごすことを忍びない心が、なにかつまらぬ心というのであろうか。
人あっての理である。生命をいとおしむものは、理に耽り理を楽しむ前に、先ず飢えたる人々に食を与えようとするであろう。
藁科松伯が藩民の窮乏を見るに忍びず、先ずこれに生活の糧を与えんとして、いかにすればよいかを思念した。
ここに明君鷹山公を得て、公をしてこの大任を果さしめんとし、公の学問の道を万民救済を説く平洲先生の実学に求めたのである。
したがって興譲の学風はいたずらに理の精致を追うことをせず、常に目標を万民の利福におき、学ぶもこのためにし、論ずるもこのためにし、詩を賦するもこのためにした。
興譲の学風が産業経済、利用厚生に結びついて離れなかったのも、まことこのためである。
学問は常にこうでなければならぬとはいはぬけれども、当時の米沢としてはまことに避けられぬ道であり、またいつの世にもかゝる学問が存在してよいのである。
本校に学ぶものが、かような態度の学問だけをしなければならぬことはなかろうけれども、今日、日本の国歩多難を思えば、かゝる学風こそは、もっとも尊重されなければならぬ重要な立場であろう。
生命を生命として育てることを第一義とする興譲館の精神に、常につき添って離れぬものは、生命に不断の糧を得しめる実学の立場であろう。
平洲先生の実学をもって藩学を建てられた鷹山公のご精神は興譲の流を汲むわれらの学の本流として、常に忘れてならないことであろう。