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ぐるっと東北 母校をたずねる 県立米沢興譲館高校-9
卒業生、私の思い出 (2017年7月28日毎日新聞東北版より)


1000人が着席可能な興譲館講堂で行われた卒業式。
講堂は、藩学創設300年記念事業として同窓生などから約4億円の寄付を集めて2000年に完成した
=14年3月2日、佐藤良一記者撮影

 2カ月にわたって連載してきた「母校をたずねる」県立米沢興譲館高編。紙面などで募集した「私の思い出」に、多くの卒業生の方々からご投稿をいただきました。“興譲館編”最終回の今回、その一部をご紹介します。

井上ひさしさんと母校に シベールアリーナ事務局長、遠藤征広さん(62)=1973年度卒、川西町

 3年間、新聞クラブに在籍し、印刷される新聞「興譲」の他に、壁新聞を作って、タイムリーな記事を載せて、週に2〜3本出していました。壁新聞の原稿が間に合わなくて、授業中、内職で原稿を書いていたのも懐かしい思い出です。顧問の曽根伸良先生の指導が懐かしいです。  

 新聞部の活動に存在価値があった3年間でした。井上ひさしさんの「青葉繁れる」を新聞部の部室で読んでファンになり、手紙を出したことが端緒となり、その後、井上ひさしさんの元で働き、井上さんの生まれ故郷の川西町に「遅筆堂文庫」を設立するきっかけになりました。

 井上さんが、興譲館で講演したことがあるんです。移転後の新校舎になってからのことですが。そのときに私も井上さんに同行して、初めて新校舎に入りました。まさか、井上ひさしさんと母校を訪れることになるとは思っていませんでした。講演会で「卒業生を紹介します」と私を紹介してくださいました。「母校に錦を飾る」ってこういうことだなと、赤面しながら感動した思い出が浮かびます。

70年安保の熱気に包まれ 川西町教育長、小野庄士さん(65)=70年度卒、同町 

 高校入学後、すぐに下宿屋に飛び込んだ。仕切りのベニヤ板越しに隣人の放屁(ほうひ)の音さえも聞こえた。夜中ともなれば、深夜放送が鳴り響き、ギターをかき鳴らして歌う友の声は夜明けまで続いた。学生服にしみこんだ男の臭いのような先輩。足駄をはき「傾向と対策」をポケットに入れて通学する姿にあこがれた。  

 70年安保前夜、その熱気は高校も例外なくすっぽりと包み込んだ。応援団長が講堂壇上から「自治会歌」と叫べば、理想の高校を求めて士気は最高潮に達した。そして卒業直前、「受験生ブルース」を歌いながら高倍率の大学入試に果敢に挑戦した。サクラチル。「惜敗の歌」が壊れた蓄音機のように頭の中を駆け回り、その日のうちに急行列車に飛び乗った。


上杉鷹山の師だった細井平洲が1776(安永5)年に揮毫した興譲館学則(教師と生徒の心構え)

クラスマッチで親交深め あさひ歯科医院医師(興譲館同窓会常任理事)、鈴木基さん(61)=73年度卒、米沢市

 「米沢興譲館 部活のあゆみ」「創立百三十周年記念誌」の編集に携わり、また同窓会のホームページを運営している。興譲館を特に意識するようになったのは、Uターンして地元で仕事をするようになってからだ。

 多くの同窓生に出会い、多くのことを学んだ。興譲館の卒業生ということで学年の垣根無くフランクに付き合えることがすばらしい。特にOBマラソン大会は、お互いを励まし合い一緒に走る連帯感がある。

 私が入学した71年はクラブ全員加入制が実施された年であり、勉強よりクラブ活動に力を入れていたが、成績がふるわないと「クラブをやめた方がいいね」と先生からの忠告があった。

 興譲館の生徒が卒業してからも仲が良いのは、クラスマッチの影響が大きいと思う。男子はバレーボール、ソフトボール、マラソン、バスケットボール、サッカー、スキー。女子は学年対抗でバレーボール、バスケットボール、マラソン、ソフトボール、バドミントン。そしてクラス全員参加の合唱コンクール、運動会。

  運動会はクラスごとに応援旗や鉢巻きを作り頑張った。合唱練習では不真面目な男子生徒が女子からよく叱られた。クラスマッチは6月から11月まで、勉強、クラブ活動に並行して行われたが、クラスのため真剣に戦った。

おなご校長に「あっぱれ!」 保健師、高山(旧姓槙)喜志子さん(73)=61年度卒、南陽市

 近年、1学年の半数以上を女子が占めるようになりましたが、私の入学時は女子は学年で30人、1クラス5〜6人でした。  

 同級生の堀内(旧姓安部)友子さん(通称ダン子さん)と陸上競技部を3年間続けました。彼女は、部活の遠征などの経験から、生徒の合宿や大会時の宿泊施設を造ろうと、結婚後、ご主人とともに米沢市内で旅館「招湯苑」を開業。生徒や教職員が喜んで利用し、評判の施設です。

 2年後輩ではありますが、母校の校長に就かれた五十嵐京子さんは、大先輩から「おなご校長か」と言われ、「そうです。おなご校長です」と答えたとうかがい、私は「あっぱれ!」と申し上げた記憶があります。

 教職に就く人が多い中、私は保健師、同級生の後藤(旧姓安部)淑子さんは助産師になり、母校からは看護職の先駆けになりました。その後、私は仕事で、病に倒れられた恩師の岩槻親(しん)先生と、その奥様をサポート。先生とはたった3年間、されど一生の交際となるなど、思い出は尽きません。


第8回 他人に役立つ人生誓う 農民詩人・星寛治さん