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書評:自分史を超えた時代の証言・金山等さん(山形大名誉教授・S25卒)
滝沢美恵子著「東京音楽学校の思い出 音楽に導かれて 桜咲き黄葉の時まで」
(2016年8月24日山形新聞より)


滝沢美恵子著「東京音楽学校の思い出 音楽に導かれて 桜咲き黄葉の時まで」

 著者は1938(昭和13)年、東京音楽学校(現東京芸術大)師範科に入学した。本書は遠くその歴史を閉じた母校の回想にはじまる。その正確で詳細な記述は単なる自分史を超え、貴重な時代の証言とも言えよう。文中に散見される下総皖一、橋本国彦、信時潔らの音楽家の名もなつかしい。次章の米沢での生い立ちや音楽学校受験のための勉強ぶりも興味深いが、白眉はやはり「音楽教師としての出発」の章であろう。
 3年間の学業が終わると、19歳の著者は札幌の女子師範(現北海道教育大札幌校)に赴任する。授業料免除の関係で1年半の実務が義務であったからだ。その後、都立第一高女(現白鴎高)に転じたが2年足らずで退職、海軍兵学校教官の技術大尉と結婚し江田島で終戦を迎えた。米沢に帰ると、著者は懇請されて米沢工専(現山形大工学部)の音楽クラブの顧問として指導にあたった。
 ほどなく著者は、創立以来はじめての女教師として米沢興譲館中学(旧制)の教壇に立つ。それはさながら天女の降臨だった。男子ばかりの学び舎に一種の戦慄が走ったとてふしぎであるまい。まだ20代の麗人とあって当時の千喜良英之助校長はだいぶ気を揉んだらしい。だが単なる杞憂であった。先生自作のガリ版刷りの楽譜で、生徒は唯々諾々と「出船」や「トルコ行進曲」などの歌曲に声をはりあげたものである。楽しい充実した授業であった。不肖の教え子である筆者でさえも、半世紀以上を経て、その歌曲のいくつかをふと口ずさむことがある。
 先生は学制改革後も引き続き教壇に立たれた。その間、興譲館以外でも、個人的に指導を受けた生徒が多く、今もその絆が強固に保たれている。先生の喜寿、傘寿、米寿を祝う合唱の演奏会には、各回ともに全国から興譲館、山大工学部、米沢東高のOBやOGが参集して盛大に開催された。その記録や写真も収載されているが、心温まる師弟愛の典型を見る思いがする。
 現在、先生は90歳を超えてなおかくしゃくとして東京に在住、民族音楽を専攻する娘の達子さんと訪れた国はこれまで四十有余を数える。その衰えを知らぬ若々しい活力によって生み出されたのが本書である。ご自身の手になる題字やカバー絵も美しい。「古きよき時代」を彷彿とさせて心にしみる記録となった。

 =自費出版。著者滝沢さんの連絡先は〒171-0051 東京都豊島区南長崎1の6の13。電話03(3954)9303.

8月24日山形新聞