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空への憧れ いつしか 滑空部・八幡原飛行場  楽しかったグライダー訓練
69年目の記憶 県内の戦争遺構を訪ねて4
(2014年8月17日山形新聞より)


飛行場の碑のそばに立ち、グライダーで滑空した少年時代に思いをはせる梅津伊兵衛さん
=米沢市八幡原1丁目

 米沢市の八幡原工業団地の一角に「八幡原飛行場跡地」の碑が立っている。今では飛行場の跡形はどこにもないが、太平洋戦争前から戦中、この地で少年たちがグライダーの滑空訓練に励んでいた。純粋な空への憧れを抱いていた飛行機少年たちの意識は、やがて「国のために空で戦うこと」に変わっていった。

軍事色が濃厚に
 八幡原飛行場は競技用グライダーの練習などを目的に、1935(昭和10)年秋に完成した。約26万4千平方メートルの敷地に幅150メートル、延長300メートルの滑走路があった。碑はその南端だった場所に立つ。日中戦争などを経て、飛行場の用途は次第に軍事色が濃くなっていく。防空意識の醸成や将来の航空兵候補者を養成する目的で、軍の教官らが周辺にある旧制中学滑空部の学生の訓練を指導するようになった。戦況が悪化する前までは。
 旧制米沢興譲中の滑空部員だった梅津伊兵衛さん(82)=高畠町二井宿=は同飛行場で訓練に明け暮れた。飛行機好きの親戚の影響で、幼いころから空に憧れ、入部した。「木製で翼に布が張られているトンビのようなグライダーだった」。機体はゴム製のけん引ロープに引っ張られて離陸。3メートルほど浮き上がり、約100メートル滑空して着陸する。「風に乗るのが楽しかった」。


八幡原飛行場で戦時中にグライダーの滑空訓練に取り組んでいた旧制中学の生徒ら

仲間も同じ思い
 しかし、徐々に少年たちの空への思いは変化していく。「予科練(海軍飛行予科練習生)に進み、戦闘機乗りになろうと考えるようになった。グライダーの訓練が空での戦いに役に立つと思い、飛んだ」。13歳だった梅津さんは国のため、命をささげることを決めた。滑空部の仲間たちも同じ思いを抱いていた。
 そんな梅津さんたちの前に「その日」は突然やってきた。とても暑い日の正午。生徒が集められた校庭に玉音放送が響いた。「負けたと聞かされ信じられなかった。心の中は複雑だった」。8月15日以降、飛行場に行くことはなくなった。
 戦後、東京の大学に進学し、家業の酒蔵の11代目となった。現在は第一線を退き、会長として会社を見守っている。
 飛行場があったことを知る人は年々少なくなり、碑だけが、かつての存在をひっそりと伝え続けている。碑の前に立つと、命をささげようと思っていた少年の頃を思い出す。自分は生き抜いたが、戦闘機で飛び立ったまま帰らぬ人々が大勢いた。梅津さんは大空を見上げてつぶやいた。「われわれの憧れだった空は戦時中、戦いの場となった。子どもたちにとって空が憧れであり続けることを願う」

8月17日山形新聞