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生徒が壁を乗り越えた時、心の中で拍手  
8度の全国団体優勝に導いた左沢高女子剣道部総監督 斎藤 学さん(S41卒)
(2010年7月18日山形新聞掲載記事)

斎藤学さん
現場での指導者の立場を貫き、生徒の成長を見守り続ける斎藤学総監督=大江町・左沢高

 竹刀を打つ乾いた音と鋭い気合が響く大江町の左沢高武道場。斎藤学総監督(62)が姿を見せると、張り詰めた空気の緊迫感が増した。いすに座って武道場の端から端までを見渡し、時折、範を示す様に手元の竹刀をクイッ、クイッと動かす。そのしぐさを見た選手が同じ動作で動く。「ほう、すぐにできた」。心の中で拍手を送り、眼鏡の奥の目を細めた。

■県内では28連勝
 左沢高女子剣道部を8度の全国団体優勝に導き、1992年には全国高校選抜、全国高校総体、国民体育大会の3冠を遂げた。県高校総体では今年、28連覇を達成。今では「全国高校剣道界の名門」と称される。指導者として一貫して追い求めてきたのは、とことん一本を取りにいく「攻めの剣道」だ。
 高畠町出身。父は職業軍人で、母は小学校教諭。3人きょうだいの長男として生まれた。「粘着質」と周囲が形容する粘り強さは両親にはぐくまれた。剣道は中学から始めた。少年時代はプロ野球選手を夢見た。川上哲治さん(巨人)にあこがれていた。中学1年の4月、剣道部顧問の体育教師に強く勧誘され、「しぶしぶ」と剣道を選んだが、最初は野球部がうらやましかった。初めて防具を着けた1年時の大会。剣道経験者の父に試合前日、初めて教わった「引き胴」が見事に決まった。審判が「一本」と上げた旗に感動した。のめり込んだ。今でも得意技は「引き胴」だ。
 米沢興譲館高3年時の県大会決勝で敗れた。「体を密着させる引き分け狙いの戦術」に翻弄(ほんろう)された。「試合内容は勝っていた」。負けたという現実を受け入れられず。1週間は放心状態だった。「剣道は相手のミスが自分のポイントにならない。(自らの技で)審判を納得させる必要がある。だからこそ、勝つには攻めるしかない」と痛感した。「攻めの剣道」の原点はここにある。
 日体大に進み、剣を磨いた。しかし、全国から猛者が集まった中で指導者の道を歩むことを決心した。タイミングも良かった。本県開催の1972(昭和47)年の全国高校総体を控え、採用枠が増えた時期。「人生で一番」の受験勉強をし、「人生で唯一の成功」という鉄棒「け上がり」を決めて69(同44)年度の教員採用試験に合格。寒河江高に赴任した。
 最初に迎えた全国舞台は本県での全国高校総体。決勝は代表選で敗れはしたが、寒河江高を女子団体準優勝に導いた。雪辱を期した翌年は優勝。77年に左沢高に異動した。
 79年に県大会で山形城北女子高(現・山形城北高)に敗れたのを機に、選手の私生活から全て見直そうと全寮制を導入した。「自宅通学は親に甘える。親元を離れることで強い信念が芽生える。そして、自分のことは自分で、他人のことも自分が、という気持ちが人間を強くする」。83年の全国高校総体で準優勝し、「環境は人を変える」という考え方に自信を持った。赴任当初の、朝げいこに対し「うるさい」という近隣からのクレーム、遠征について不十分だった校内理解も、声援や応援に変わっていった。
■教頭推薦を辞退
 15年ほど前、大きな決断をした。教頭職に推薦する―との打診を受けた。2週間ほど悩んだ末、辞退することを選んだ。教員生活の最後まで、一人でも多くの生徒と一緒に剣道をし、卒業後に人生を切り開いていく姿をそばで見たい…。指導者を貫くことを決心した。2008年3月に教職を退いた後も、総監督として同校で剣道を教える。
 生徒たちは日本一を目指して左沢高に入学してくる。それをかなえるため、「攻めの剣道」を身に染み込ませ、試合で実践して勝つ方法を考えさせる。生徒たちは自らの剣道の修正や新たな技術の取得に悩み、もがく。日本一をつかみ取るには日々、これを積み重ねるしかない。つらく、苦しいことはわかっているが、妥協はしない。「課題をクリアする能力」は高校を卒業後、それぞれの人生でも大きな力になると考えているからだ声を張り上げ、厳しく指導しながら、生徒が一つの壁を乗り越えた時は心の中で拍手を送る。


 
7月18日山形新聞