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直江兼続素顔に迫る 主従の強い絆
家臣の保身主義きらう 清野 春樹さん(S43卒) (2009年10月28日山形新聞掲載記事)

 

長谷堂合戦図屏風
「長谷堂合戦図屏風」(最上義光歴史館)に見える直江兼続(中央上の騎馬武者)と
家臣の横田式部(兼続のすぐ下の騎馬姿)。
実際には式部は上山口合戦に参加しており、兼続と合流はしていない。

 

 上杉謙信の没後、謙信の養子二人が家督を争った「御館の乱」で、景勝が景虎を倒し権力を掌握した、しかし間もなく織田信長軍によって魚津城が落ち、春日山城も包囲されようとしていた。この滅亡の危機に際し、景勝・直江兼続の主従は何を考えたのだろうか、幸いこの危機は信長の突然の死によって回避されたが、上杉軍団は弱体化していた。
  思えば亡き謙信は、家臣の相次ぐ離反や独立の動きに振り回され、その統制に苦しんだ生涯でもあった。この家臣団の動きを抑え、統制するのが大きな課題だった。既に論功行賞のもつれから場内で刃傷沙汰が起き、重臣新発田重家が謀反を起こしていた。戦国の世も淘汰が進み、合戦で武功をあげて自分の知行を増やすことしか考えない家臣は、時代に乗り遅れているだけでなく主家の統一した行動を阻害した。
  兼続はこうした家臣に重きを置かなかった。その代わり与板衆と言われる兼続直属の家臣団を、景勝直属の上田衆と共に上杉家臣団の中核に据えた。また兼続は豊臣秀吉に倣って各地で検知を実施し、旧来の国人領主の権利を制限するとともに、蔵入地という景勝直轄領を飛躍的に増やした。
  この兼続の政策に従えぬ勢力もいた。また兼続の急速な台頭が旧上杉家臣団を動揺させた。景勝の義兄に当たる上条政繁が北信濃の統治を任せられたが、その時「直江兼続を自分の副将に」と露骨に兼続の罷免を要求し、景勝に拒絶されている。それで政繁は出奔し、秀吉の旗本となった。
  旧来の権威にしがみつく者たちは予想以上に多く、兼続に反発した。関ヶ原決戦前夜に信夫郡大森城代であった栗田国時が逃亡した。彼は上杉を見限り徳川家康の元へ行こうとして事が露見し、途中で殺害された。越後津川城代の藤田信吉は、景勝と家康との間に緊張が走ると戦を避けるため家康に接近した。兼続にそれを咎められると、信吉も家康の元に走って兼続の謀反を報じた。こうした離反や裏切りは兼続にとって許せないことであった。
  裏切りの多い戦国時代に本当に信じられるのは直属の与板衆であり、兼続は大切にした。他所の出身であっても、これぞと見込んだものは与板衆に加え、存分に働かせた。
  例えば、春日元忠は元武田勝頼の家臣であったが、武田家滅亡後兼続に仕え、高畠城代などを務めた。もう一人横田式部は、芦名家滅亡後会津奥地の群小勢力と徒党を組み、伊達政宗に頑強に抵抗した山内氏勝の弟であった。元忠も式部も出羽庄内一揆の鎮圧という辛い役目を引き受けている。
  式部はその武勇をみこまれ、上杉と敵対する最上領際にある出羽中山城の城主として登用された。慶長出羽合戦では与板衆の本村親盛とともに中山城から打って出た。間道を抜け広い野に出て戦うはずであったが、羊の腸のような狭く険しい道の途中で伏兵に襲われ大敗した。しかし、そこから侵入しようとする最上勢を寄せ付けず、上山口を死守した。戦後は大谷地と呼ばれた白竜湖付近にも田を開いた。彼も与板衆の一人とした遇され、兼続の施策を見習った。
  兼続は旧来の家臣たちの保身主義を嫌い、義に生きることを信条にした。前田慶次もこうした兼続の生き方に共鳴し、出羽合戦で朱槍を振るった。兼続の家臣団とのつながりには、謙信以前の美しさがある、かつて謙信は凛々しい小姓たちに美しく着飾らせ戦場に揃えたという。これは一種の象徴である。景勝主従の軍団はその後大坂城での攻防でも見事な統率ぶりを見せた。
  景勝や兼続は若いころからよく連歌の会を催した。記録には残っていない多くの集いを通じて、家臣団との絆を確認し謳いあげたことだろう。新羅の花郎(ファラン:朝鮮半島の若者を中心とする戦士集団)を思わせるこうした主君と家臣団の信頼関係は、戦国の華でもあった。その対極が裏切りであり、反抗であった。
  直江兼続は、義という伝統を深く重んじた武将であることが分かる。

清野春樹さん

清野春樹(せいのはるき)さんはは1949年米沢市生まれ。米沢興譲館高、神奈川大経済学部卒。
「川に沿う邑(むら)-優○曇うきたむ風土記」で第7回歴史浪漫文学大賞を受賞。○は山へんに老・日。

 

10月28日山形新聞